HISTORY 歴史

懐が大きく心地よい環境

イメージ画像|パークハウス清澄白河タワー
水があり、緑がある。名園があり、公園があり、老舗店や歴史ある建築物と共にミュージアムがある。この街には、思いを馳せることのできる、歳月と豊かさの「奥行」がある地となっています。

大名下屋敷跡地

イメージ画像|パークハウス清澄白河タワー
この地はかつて、大名下屋敷がありました。江戸年代の大名たちは、当時とくに風光明媚な地を選んで下屋敷という名の「別邸」を建てたといいます。そんな、下屋敷の系譜と共に在る、深き歳月と美の記憶が宿っている地に『パークハウス清澄白河タワー』は建てられています。

「ヒト・モノ」を江戸とつなぐ

イメージ画像|パークハウス清澄白河タワー
『パークハウス清澄白河タワー』からそれぞれ東と南にあたる、大横川以東、仙台堀川以南は、江戸開府以降、増加した人口に対応するため埋め立てられた場所です。さらに、現在の東京メトロ東西線以南は、明治年代以降に埋め立てられた新しい地です。その中にある『パークハウス清澄白河タワー』の建つ地は、旧くから江戸と東京のさまざまな変遷を見守ってきた場所でもあります。とくに北側の小名木川が、徳川家康の命を受けて、隅田川と中川をつなぐ物資と人の輸送路として延伸されて以降、この界隈は都心に「ヒト・モノ」をつなぐ場所として、その魅力ある立地性を愛する多くの人々に、永く住み継がれてきました。

庭と邸と美の史実

イメージ画像|パークハウス清澄白河タワー
「清澄庭園」は江戸時代、大名の下屋敷があった地でした。明治年代になり、岩崎弥太郎の手により、この邸地は本格的な庭園として歩みはじめました。その後、三菱社員の慰安や貴賓招待地「深川親睦園」として竣工されました。そして、隅田川の水を引き、全国各地から名石を取り寄せ、「回遊式林泉庭園」と呼ばれる近代的名園としての景観が完成されました。水、緑、桜、そして芭蕉句碑、大正天皇葬場殿。そこに在る潤いと、流れた歴史、建築意匠は、まさにこの街の豊かさそのものです。また、「震災復興はまず住居なり」という管理者・三菱の信念から資材供給の場となった震災後のエピソードは、歳月を重んじ、人の生と自然の潤いを貴ぶこの街が、「美」と「邸」と共に歩んできた歴史を物語るものとも言えます。

情趣を愛し、潤いを愛した人と共に

イメージ画像|パークハウス清澄白河タワー
小名木川は、芭蕉が船を浮かべて句を吟じたことでも知られる川です。清澄庭園内の句碑や別荘だった「採茶庵跡」(約1,200m)など、芭蕉の面影が界隈には多数存在しています。さらに、松平定信の墓碑、「清澄庭園」内の大正記念館、さらには24万m²を超える広大な「木場公園」が、昭和天皇御在位五十年記念公園であることを考えあわせれば、時代を超えて芭蕉が愛した情趣と豊かな風景、豊かな自然が大切に育まれてきた地であることがわかります。潤いにも、景観にも「奥行」がある。ここに在るのは、住み継がれてきた地だからこその豊かさです。
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